【なんちゃって哲学(?)】「言葉」とは何か? 外国語を勉強することは何の役に立つのだろう?

f:id:Direweiter:20170822225526j:plain*1

 

 最近私は、何かを語ること、言葉を紡ぎだすことにしばしば困難を感じることが多い。

語りたいと思う「何か」を自分自身が思い描くように、うまく描写することができないと感じるのだ。

 友人や大学での仲間達との会話の内容、そこで起きた出来事、状況を、聞き手にとって明瞭に、立体的に、視覚的にイメージできるように喋ることができていないと感じることが多くなってきた。このような、何かもどかしく、自分自身に憤りを覚えるような感覚を感じたことは今までなかったと思う。文章を書くことが苦手だと思う気持ちは小学校の時からすでにあったけれども。

失語症(aphasia)」ではないけれど、何かを「表現」しようとすることに一種の「不安」を感じるようになってしまったことは間違いないようだ。

  このような感覚に陥ってしまうこと、あるいはこのような気持ちを抱くことは、あまり珍しいことではないのかもしれない。「考えていること」と「表現すること」の間には何か名状しがたい距離があるのではないだろうかと感じるようになった。

 頭の中にあるや知れぬイメージを言語化することがうまくいっていないのかもしれない。あるいはそのイメージ自体がうまく具体化されていないのかもしれない。

 何かをイメージすること、言語化すること、描き出すこと、書きだすこと、言いかえれば、何かを表現すること、再現すること、創り出すことには、言葉が密接にかかわっているように思えてならない。言語という1つのシステムに従うことでしか、私(私たち?)は「思考」することができないのだろうか?

いや、そもそも「考えること」と「知覚すること」を同列に語ることができるのだろうか?

 いずれにせよ何かを伝えたいと思い、何かを「語る」ためには、「語り」続けなければならないだろう。

それが自分自身を納得させるようなもの、または相手を納得させるようなものでありたいとのぞむものであるならば。

 例えば外国語を喋るとき、つまり自由自在に操ることができない外国語を用いる際、話し手としての「私」の伝えたいことが、聞き手にとって必ずしも明瞭明快なものではないことが、しばしば起こる(私の場合)。そんなようなとき私は相手に理解してもらおうと、身振り手振り、音、言語などを通してなんとかわかってもらおうと四苦八苦することが多い。

 そのようなことを強く感じるようになったけれども、このような趣旨の考え方はそんなに新しいことではないし、既存の議論をただ単純になぞったようにも思える。既に哲学の分野などにおいて広く議論されている内容だ。

 例えば、フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、「言説の領界(L'ordre du discourse)」や「作者とは何か」、「外の思考」において「言葉を語ること、言葉を語り続ける」ことに一種の不安、危険性を感じていた。コレージュ・ド・フランスでの講義を著作化した「言説の領界」で彼はサミュエル・ベケットの「名付け得ぬもの」から、こうした気持ちを言い表すものとして、引用をしている。

 「続けなければならない、私は続けることができない、続けなければならない、言葉がある限り語らなければならない、彼らが私を見つけ出すまで、彼らが私のことを語るまで、言葉を語らなければならない。――奇妙な罰だ、奇妙な過ちだ、続けなければならない、すでに死んでしまったのかもしれない、すでに彼らは私のことを語ったのかもしれない、私を私の物語の入り口まで、私の物語に開かれる扉の前へと運んだのかもしれない、もっとも、その扉が開くことはまさかあるまいが。」(M.フーコー『言説の領界』河出文庫、8ページ。)

 

言語という、1つの体系が「思考」と密接に関わり合いをもっているとするならば、つまり、言語という枠組みにおいて初めて物事を考えることができるになると仮定するならば、私たちの思考には限界があるのかもしれない。しかし、このように言語を媒介とする「思考」と外界からの刺激を「知覚」することを分けて考えるのであれば、そのような限界はないと言えるのかもしれない。

  

 しかし長々とわけのわからぬことを書いてきたな、とつくづく思う。

日本語、英語、ドイツ語、中国語、フランス語、…等々、世界には数えきれないほど(?)多くの言語があるけれども、それぞれの言語を外国語として学び、考え、話し、書き出す機会をもつことは、多くの可能性を見出すことにつながるのではないかなと思う。

 何かを表現すること、再現することはなんて難しいことなんだろうか!

*1:2016年8月4日ベルリン、ユダヤ博物館にて撮影。